101歳のおばあさん、永眠
大往生です。
間際の2〜3日はちょっと苦しんだと聞いたが、
介助を借りながらもトイレに自力で行き、
ベッドに戻るとすぐに、そのまま眠りにつきました。
11月10日、午前11時30分を少し過ぎた頃。
その一報を、母からケータイへの
留守番電話で聞いたのは、午後の1時過ぎ。
ラーメンを食べに天童まで行っていて…笑いますね。
すぐに、おばあさんの家に電話を入れ、
まっすぐに駆けつけた。
天童からの道すがら、前が見えなくなって運転ヤバかった。
11月11日、納棺。
11月12日、出棺・火葬。
11月13日、葬儀。
幼い頃は同居していた時期もあった。
小学校に入ると、朝、自宅から登校し、下校はおばあさんちへ。
夕方になると父が迎えにきて自宅へ戻るという生活が続いた。
中学・高校時代は自転車通学だったこともあり、
自宅と学校のちょうど中間にあるおばあさんちは、
格好の立ち寄りどころ。
おやつ代わりに、みどり屋の中華を食べさせてもらったり、
おばちゃんが大沼から買ってきたタコ焼きにありついたり。
何度「借金」という名のおこづかいをもらったことか…。
大学入学のため上京した時は、
たどたどしい字で一生懸命書いた手紙をくれたっけ。
あずきたっぷりの、冬至カボチャ。
湯気で前が見えなくなる、ひきずりうどん。
味の素がふりかけられた、ほうれん草のおひたし。
風邪の時に決まって用意してくれる、
すり下ろしリンゴも大好きだったなぁ。
今ではその原因を思い出せないが、
怒られて、物置の床下(穴蔵と言った)に
閉じ込められたこともあった。
あれは、マジで怖くてちびりそうだった。
晩年、遊びに行くたびに、おばあさんは
同じ思い出話ばかりを繰り返した。
「シンヤ、小学生ぐらいの時よぉ、
“ひ孫見るまでは生きてられないんねが”と
お客さんと話してたらよ、
“おばあさん、僕が結婚して早くひ孫見せてやるから
長生きしろなぁ”て言うんだっけ」
僕の顔を見ると必ず、この話が出る。
実は僕自身は、全く覚えていない。
ただ、何回も、何回も、それもすごく嬉しそうに話すもんだから、
僕は、いつも黙って聞いていた。
11月10日は、奇しくも
15年前に亡くなったおじいさんの命日でもあった。
そしてその約2週間後、娘が生まれた。
葬儀の時、弔辞を最後に読んだのは、
かつて約束した(らしい)ひ孫、15歳になる僕の娘だった。
僕はこの写真を、おばあさんが亡くなった日、
急ぎ駆けつけたおばあさんの家の前で撮りました。
少しでも早くおばあさんの顔を見たいと思っていたのに、
あまりにもいい天気で、あまりの青空で、
ふと立ち止まりカメラを構えたのでした。
何気ない普段通りの小路、初冬の清々しい空の青さ。
今思うと、僕の中のおばあさんは、
ちょうどこんなイメージだったのかも知れません。