浅倉かおりさんのこと
こんにちは、すっぽこ所長です。
僕がすっぽこに出会い、
初めてブログに書いたのが、2005年5月4日のこと。
「研究所」のカテゴリーを作ったのが、
5月12日(すっぽこ研究所設立)。
そして、実にその2日後には、
山形市のシティエフエム局「vigo FM」にて、
「すっぽこ」が紹介された。
すっぽこがメディアに登場した史上初の日。
すっぽこのことを取り上げてくれたのは、
vigo FMでパーソナリティを務めていた、
浅倉かおりさん。
ご存知、研究所のNo.2、主任研究員である。
そもそも、初めて「すっぽこ」の文字をメニューに発見し、
最初に連絡した先が浅倉さんだった。
お互いに、取材・ライティングを生業とし、
エディターとしても仕事をしている数少ない一人だった。
「な〜な〜、あさくら〜、すっぽこって知ってる?」
「え?なんですか?え?すっぽこ?え〜!知りません!」
こんな1本の電話から、
すっぽこ研究所はスタートしたのです。
その主任研究員、浅倉かおりさんが亡くなりました。
今日が葬儀だった。
葬儀が終わったあと、
研究所員でもある、わだっちこと
東京から参列した和田かずみくんと、
羽前屋さんで待ち合わせ。
浅倉さんのこと、ぽつりぽつりと話しながら、
すっぽこを食べました。
彼女とは、最初を覚えていないほど
古くからの付き合いだったのだけれど、
同業者ということもあり、
一緒に仕事をしたのは数えるほど。
それでも気になる存在として、僕の中にいつもいた。
浅倉さんといると、意味もなく楽しかった。
ちょっとしたことで、ゲラゲラ笑い(笑い合い)
ふざけてむくれたりもする。
仕事でからむことの少ない彼女と、
すっぽこという共通の話題で濃い時間を持てたのは、
本当に楽しかった。
すっぽこに関して、雑誌やTVやラジオから、
僕にオファーがくるたびに、
大げさ過ぎるほど喜んで、はしゃいでくれたのも
浅倉さんだった。
すっぽこに注目が集まることは、
当初からすれば夢のようだったし、
それが実現することはとても嬉しかった。
それ以上に、浅倉さんの反応が楽しみだった。
昨シーズンに続き、今冬も、
いくつものメディアで紹介していただいた。
浅倉さんは検査入院の結果が悪く、
すでに病床についていたが、
僕からの報告は絶やさなかった。
浅倉さんの、はしゃぎぶり。
--------------------
所長〜!遂に全民放制覇ですね!
パチパチ♪
病室ですっぽこを見ながら、
免疫力をあげたいと思います。
わーい(笑顔マーク)
--------------------
これが、彼女からの最後のメールとなった。
亡くなる1カ月ほど前に、
実家を継いでいる弟さんから電話があった。
リフォーム竣工のお祝いを準備してあって、
でも入院が長引いて渡せないから、
代わりに届けてほしいと言い付かったとのことだった。
退院してからでいいのに。
そう伝えたのだが、本人がどうしてもと。
その日のうちに来宅いただき、お祝いを受け取った。
自分ではペンも持てず、お姉さんが聞き書きしたという
手紙が添えられていた。
弟さんが帰ったあと、封を開けると、
便せんに3行のメッセージ。
わずか3行さえ自筆出来ないのに。
お祝いなんて、いつだっていいのに。
弟さんが帰り際に、
ケータイでビデオを撮りたいというので、
いただいた器を持ち、
「早く帰ってこーい!」とメッセージした。
あのムービーを浅倉さんは見たんだろうか。
笑ってくれたんだろうか。
ここに1冊のリーフレットがある。
数少ないと言った、一緒の仕事。
『バードの愛した金山町』
明治11年に、イギリスの女性旅行家
イザベラ・ルーシー・バードが、
金山町を訪れた時の様子を、
現代に再現してみようという試み。
そのリポートを、浅倉さんに依頼し、
僕はディレクションと撮影を担当した。
一緒に金山の町を歩き、人に会い、
特集としてまとめたページは、
当初、毎年発行される町の情報誌に掲載された。
それが今も、抜き刷りされ、活用されている。
Webでも公開されているので、
興味のある方はご覧になってみてくださいね。
浅倉さんらしい、やさしく凛とした文章です。
>>金山町/森の便り/Vol.18/バードが愛した金山町
最後に、その時に撮った1枚を載せます。
5年前の彼女。
すっぽこ研究所主任研究員、
浅倉かおりさん、ありがとうね。
本当にありがとうね。
しばらくの間、バイバイ。