すっぽこ通信 12/18号「Y's リポート」
寒さ厳しく、雪もっさもっさな今日この頃、
いかがすっぽこってますか?
今回のすっぽこ通信は、大盛りどころか特盛り!
身震いするほど読み応えありです。
このリポートを寄せてくれたY氏は、
本業こそ明かしませんが、市井の江戸研究家。
ある飲み会の帰りにY氏のもとに立ち寄ったところ、
つい、すっぽこ話で盛り上がってしまいました。
その数日後、うちのスタッフが
「これ預ってきたよ」と指し出したのが、まず第1弾。
さらにそれから数日経って、第2弾が今度は郵送で届けられました。
Y氏の許可を得たので、ここに開示します。
我々研究所がすでに仮説化していた内容を裏付ける部分あり、
全く新たな歴史的事実に関する記述ありで、
驚嘆、賞賛、納得の雨あられ、雪ふぶき。
前置きが長くなりましたが、
リポートもぶん長いので、覚悟してお読みください(笑)
<Y's リポート 1>
■江戸時代の「しつぽくうどん」について
この前のすっぽこ話が面白かったので、手持ちの江戸時代の本でちょっと調べてみました。
幕末に出た、一種の生活百科事典ともいうべき、「守貞謾稿(もりさだまんこう)」という本がありますが、それに各種の食べ物について書かれている部分があります。それによれば、まず、京阪のうどん・そば屋のメニューが紹介してあり、
うどん 代 十六文
そば 代 十六文
しつぽく 代 二十四文
あん平(あんぺい) 代 二十四文
けいらん(鶏卵) 代 三十二文
をだまき(小田巻) 代 三十六文
とあり、更に、
しつぽく 饂飩(うどん)の上に焼鶏卵、かまぼこ、しい茸、くわいの類を加ふ。
あん平(あんぺい) しつぽくに同じくこれを加ふ。葛醤油(くずしょうゆ)をかけるなり。
けいらん(鶏卵) うどんの卵とじなり。
をだまき しつぽくと同じ品を加え、鶏卵を入れ蒸したるなり。
と説明してあります。ここから、 “すっぽこ”と同じものと思われるものは、どうやら「あん平」らしく見えますね。「あん平」はおそらく「あんかけ」の「平皿」のものという意味ではないでしょうか。京阪らしく、うどん類のメニューがほとんどです。
京阪ではうどん・そばの類は「十六文のものは共に平皿に盛る」のであり、「常の肴皿(さかなざら)の粗なる物なり」とあります。かけ、盛り、共に今でいうスープ皿程度の浅い皿に入れて、その上から、汁などをかけたのだと思われます。これが基本形です。
さらに説明が続いており、「しつぽく以下は、あるいは平に盛る椀なり」とあって、「椀は朱あるいは黒ぬり」と注がついていて、木製のふた付き平椀が使用されることが多かったことがわかります。
「小田巻」は大茶碗に盛る。蒸す故なり」ともあり、うどん・そばは「平皿」、しつぽく・あん平・けいらんは「木の平椀」、をだまきは焼き物の「大茶椀」で供されるのが定番のようですね。
江戸は「しつぽく皆、丼鉢に盛る。同、ふた、黒ぬり小盆なり」とあって、かけの類は、みんな丼に入って、木の盆でふたがしてあったようです。ちなみにこの本によれば、江戸には「あん平」「をだまき」はありません。変わりに、たぶん、そばのメニューとして、
あられ ばか貝の貝柱をそばの上に加ふをいう。
天ぷら 芝海老の油あげを三、四加ふ。
花巻 浅草のりをあぶりて揉み加ふ。
鴨南蛮 鴨肉とねぎを加ふ。(これは冬のみのメニュー)
などがあって、「しつぽく」と「玉子とじ」は共通しています。これは「京阪と同じ」と書いてあるだけです。うどん類は、この程度だったようです。従って「すっぽこ」の形状に一番近いものは、京阪で「あん平」と呼ばれていたものと思われます。
「しっぽく」と「あん平」の違いは、あんかけ状態のものにするしかないだけですが、京阪では平皿、平椀でうどんを出すわけですから、現在のうどんのように、江戸と同じく、丼でいただくわけではないので、比較的、めんつゆの量は少なかったと思われます。従って「しつぽく」の上にあんかけをのせたのが「あん平」ということであっても、実際上は、うどんの上にあんかけを直接のっけたのと、ほとんど変わりはなかったのでは、と思われるのです。
おそらくですが、「しっぽく」と「あん平」の値段が一緒なのを考えてみても、つゆをあんかけ状にするか、しないかだけの違いであって、中の具は同じなのでしょう。山形の「すっぽこ」が、木の椀を使うのが本式らしいということからも、江戸ではなく、京阪からの影響を強く感じますね。近江商人の、街としての文化が残っているということなのでしょうか。
更に「小田巻」は、このまま土鍋でやれば「鍋焼きうどん」そのものです。値段も三十六文と、普通のうどん二杯分以上です。江戸時代は、いかに卵が高級品だったのかがわかって興味深いです。
この時代は、素うどんに具が加わっていくと値段もあがるという、とてもわかりやすいものなので、具の代金としては卵が異常に高いように思えます。
それはさておき、この資料からわかることは、山形の「すっぽこ」が江戸時代の京阪だけにあったと思われる「あん平」と同じものなのではないかということだけです。「しつぽく」は、また「しつぽこ」とも表記されていて、「すっぽこ」が「しつぽく」から来ているのは間違いない所でしょうが、この「しつぽく」自体がどこから来ているのかは、残念ながら、定かではありません。どうして「あん平」が「すっぽこ」になったのかもわかりませんね。
具の内容は「しつぽく」「あん平」とともに共通で、卵焼き、かまぼこ、椎茸、くわいの類と書いてあるだけですし、何故これらの物が入ると「しつぽく」になるのかは、この資料からは伺い知ることができませんでした。
長崎のしっぽく料理も、中華風で、大皿から取り分けて食べるのが当時珍しかったようですが、この本には詳しくは記してありません。言葉上のルーツは多分、長崎なのでしょうけど、うどんに取り入れられた道筋はイマイチはっきりしないのでありました。
少しは参考になれば幸いです。今後の研究に期待しております。
<Y's リポート 2>
■しっぽく、おかめ、のっぺい、鍋焼きうどん
すっぽこの続きです。
他の資料も少しあたってみた所、「しっぽく」は、やはり長崎の卓袱料理から来ているらしいですね。卓袱料理のメニューの中に、うどん類の上に様々な具を散らしてかけた物があったらしく、それを基にして江戸(と言われている)のそば屋がタネ物のそばのひとつとして、工夫したものだと思います。
昔の卓袱料理は、大皿から取り分けて食事をすることに、ひとつの特徴がありました。日本は伝統的に食事は、ひとり一人にお膳がつくのが普通でしたから、大勢でひとつの大皿から一緒に食べるというのは、大変珍しく、エキゾチックな感覚だと思われます。
ちなみにこういう食べ方をするのは、酒飲み、宴会の場に限ることであったらしく、これもお盆の上にお皿をのせて、直に床の上に置きます。このように日本では、食事と酒飲みは全く違ったものだったので、浮世絵なんかを見ても、酒飲みか、食事の場面かは、すぐに分かるようになっています。
それはさておき、卓袱料理は中華のメニューを取り入れたものであって、初期の頃はテーブルの中心に大皿や鍋が、ど〜んと置かれ、それを皆で取り分けて食べるという形式だったそうです。その大皿の料理の中に、具だくさんのうどんの類の皿があったということなのでしょう。
それを、そば、うどんのメニューの中に新作として考案し「長崎卓袱風そば・うどん」として定着していったもののようです。
「しっぽく」の説明として「そば切を大平(大きな平皿)に盛り、上おきしたるを(上に具入りの汁をかけたもの)しっぽくと呼、今は大平にもらねども、しかいふは上おきの名となりしやうなり」(※嬉遊笑覧より)というものがあって、江戸の町でも、最初は京阪と同じく、平たい皿や椀で出していたようです。卓袱料理のミニチュア版というところでしょう。
現在「しっぽく」は、そば屋のメニューからはほとんど消えてしまっていますが、これはどうも幕末に江戸で流行した「おかめそば」に負けたかららしいですね。
考えてみると、今の「おかめそば」と昔の「しっぽくそば」は大変似ています。イメージ的にはいわゆる「五目そば」に、ほとんど近いですよね。普通のネタ物として似たようなもんに見えます。
しかしながら幕末の新メニューとして登場した「おかめ」は「しっぽく」にさらに工夫を加えたものでした。
「おかめ」とは、湯葉を巻いたものを髪の毛に、かまぼこ二枚を目に、松茸を鼻になぞらえ、かけそばの上にこれらの具で「おかめ」の顔を描いたものが基本の形で、この三種は必ず入ります。加えて、松茸に細工して口にしたりとか、店々でそれぞれだったようですが、
これが大流行して「しつぽく」は「おかめ」にとって変わられ、だんだんメニューから姿を消していったのだと言います。今となっては「おかめぞば」にちゃんと顔を描いてくれる所もほとんどなくなり、逆に「しっぽく」状態に逆戻りしているお店ばかりみたいですけど(笑)。従って昔の「しっぽく」は今の「おかめ」として残っているとも言えそうです。
さて、前に「小田巻」が「鍋焼きうどん」の原形なのでは?と書きましたが、どうやら勘違いでした。調べてみたら「小田巻」はなんと、うどん入りの茶碗蒸しだったんですね。明治、大正に入っても、なかなか人気のメニューだったらしく、京阪では専用の蒸し釜がお店にあるのが当たり前だったそうです。
んじゃ「鍋焼き」はどこから?と考えると、内容的には「しっぽく」の煮込みに思えてきました。「鍋焼き」も幕末に京阪で考案され、爆発的な大人気になり、明治十三年には、読売新聞に「近ごろは鍋焼きうどんが大流行で、夜鷹そばを売るものは只だ十一人で有るといふ」という具合に屋台そばの息の根を止めてしまったようです。
夜鷹そばと言われた屋台そばでも、十六文のかけ・もりばかりではなく、簡単なネタ物も売っているよたです。歌舞伎の“切られ与三”八幕目に(これは「♪死んだはずだよ、お富さん」の歌で有名ですが)そば屋の売り声で「うどん、そば、しっぽこ、そばぃ」などとあって、屋台でも「しっぽく」が売られていたことが分かります。
この「しっぽこ」が「鍋焼き」に取って代わられてしまったと考えられます。具の内容はほとんど一緒だからですね。熱々の煮込みが人気が出た理由なのでしょう。
というわけで、
長崎の卓袱料理 → しっぽくそば・うどん → おかめそば
→ 鍋焼きうどん
どうやら、こんな風な流れになっているのでは?と思うのですね。しかしながら、山形の「すっぽこ」はいわゆる「あんかけうどん」ですから、また少し違った系列を考察する必要があります。
先々に紹介したメニューでは、「あん平 二十四文」とあって、この「あん平」が「すっぽこ」らしいということでしたけど、また別の京阪のうどん屋のメニュー(江戸時代のもの)をあさってみると、「のっぺい 二十四文」というのがあり、「江戸のあんかけと同じ」と解説してあるのを見つけました。この他に「あんかけ 十八文」というのもあり、「あん平」と「のっぺい」は同じ物らしいのですが、別口の「あんかけ」が安い値段で出ているのは、素うどんに具なしのあんかけをかけたものなんでしょうかね?安いので、そういうことらしいですけど。時代違いかもしれません。
さて「のっぺい」は「のっぺい汁」のことで、江戸の町では濃平汁と書き、「とうふ、にんじん、ごぼう、などを葛煮した汁」のことで、料理屋でも平皿で出されることもあったようですな。
葛あんを使った料理は、色々あるので、「あんかけ」も「あん平」も「のっぺい」も、うどんそばに、あんをかけるのには違いないのですが、名称の違いだけなのか、中身の具が違うのかは、もう少し調べてみないとはっきりとは言えません。現在でも近江地方で「のっぺい」が残っているとのことですが、山形の地で「すっぽこ」として残っている「あんかけうどん」の伝わった経路は、江戸からなのか、京阪からなのかはイマイチ不明ですね。どちらの地でも「しつぽく」は作られていましたし、平皿平椀も最初は江戸でも使っていたらしいですから。
それにしても何故、あんかけ系の「あん平」や「のっぺい」が山形では「すっぽこ(しっぽく)」に訛ってしまっているのでしょう。どこで混乱があったのか興味深いところではあります。
こっから先は、もっと専門的な文献がないと難しいです。八文字屋でそれらしくものを発見したのですが、高価すぎるし(七千円近くもする!!)、必要な部分がどれだけあるかもイマイチ不明なので、手がでません(笑)。
長岡さんのフィールドワークに期待するのみですな。
今のところ
┌───── … ──────┐
卓袱料理の一品 → しつぽく → おかめ │
│ → 鍋焼き │
└→ あん平・のっぺい ↓
└ … → すっぽこ
このようなことが、文献上からは垣間見られるといった感じで、あんかけ系のうどん・そばのルーツがどうも気になる所ではあります。「しつぽく」のあん仕立てということでよろしいのか、別系統であん系の料理があるのか? 本来的なことはあまり関係ないかもしれませんけど。
といったところであります。
【所長雑感】
■「あん平」の謎と近江商人の足跡
さて、どれぐらいの人が、ここまでたどり着けただろうか(笑)
このY氏のリポートでは興味深い点が数知れずあるのだが、中でも注目するのは、まさしくすっぽこであろう「あん平」と、京阪から近江商人によって伝えられたのではないかとするY氏の推測である。
前者「あん平」は、リポートの内容からしてすっぽこに間違いないだろう。しかし、現代においては京阪地区においてもその品名を見つけることはできない。あるのは「のっぺい」のみである。それはなぜだろう。また、我々が根拠ないままに仮説としていた、すっぽこ伝来に近江商人が深く関わっていたのではないかという点について、かなり核心にせまりつつあると思われる。
今後のすっぽこ研究においては、この近江商人の足跡を辿ることが不可欠だろう。それがそのまま、すっぽこの道に重なる可能性が高いからだ。私の想いはすでに、近江商人の故郷、近江八幡へ飛んでいる。ぜひ行きってみたい!
さらに。近江商人とすっぽこの関わりについて、実は、さらに有力な手がかりが同じ東北の某所に残っていることを突き止めている。次号以降にご期待あれ!
(「Y's リポート」テキスト化:へ)
*「すっぽこ研究所」では、山形県の「すっぽこ」について、
歴史的・文化的・民族学的研究に深く“楽しく”取り組んでいます。
*皆様からの「すっぽこ」情報をお待ちしています。
*テレビ局・新聞社の皆様、ぜひ「すっぽこ」を番組・記事にしませんか?