すっぽこ通信 5/27号
ちょっと、すっぽらかし(ほっぽらかし)だった、すっぽこ通信。
本日は豪華ナイトショー3本立てでございます。
最初は、定例a主任研究員からの日報、
続いては、山オヤジ特派員の久々のリポート、
そして3本目は「家庭で食べられていたすっぽこの記憶」です。
さ、ポップコーンとコーラ片手に、
朝まで読み明かそうぜぇ♪
それでは、1本目。a主任研究員の日報です。
< 日報 > *すっぽこ研究所 a主任研究員
今日は某企業が発行している冊子の取材で小国町へ行ってきました。
朝7時半に出発し、温泉2ヵ所、体験施設1カ所、
食事処2カ所、その他いろいろ・・・
というハードな工程でしたが、もちろん聞き込み調査も忘れませんでした。
同行された広告代理店の営業さんとカメラマンが
撮影をするために席を離れた隙をねらって、
「あの、す、すっぽこをご存じですか?」
と取材先の方へ、すかさず質問。
しかし・・・、残念ながら収穫はゼロでした。
取材対象者が90歳オーバーでなかったこともあるかと思いますが、
「へー、すっぽこって、あんかけうどんのことなんですか〜。
ん〜、そばやうどんだったら、
この辺で食べるのはなめこそばとかだものね〜」という答え。
そこで、はたと気が付きました。
なめこといえば、独特のぬめり。
天然の「あんかけ」みたいなものです。
なめこVSすっぽこ(あんかけバージョン)
すっぽこが、いつ頃、どんな経路で山形に上陸したのか、
(小国町は新潟県と隣接していることから、
これまでにない情報が得られるかも、という期待もあったのですが)
なめこが幅をきかせている小国町の場合、
さすがのすっぽこも入り込む隙がなかったのかもしれません。
今後、研究を進めて行きながら、
山形県内における「すっぽこ分布図」を作成し、
山形県の市町村別「すっぽこ支持率」も推察してみたいものです。
【所長所感】
■「すっぽこ」を口に出す時の気恥ずかしさ
「すっぽこって知ってます?」と切り出した瞬間に現実離れしてしまう、日常からの不思議な浮遊感。あれっていったい何なのだろう。思うに、すっぽこが持つ空間軸におけるスケール感(長崎〜山形)と、時間軸的な(すっぽこメジャー時代〜忘れ去られた現在)スケール感の、2つの大きな要素が、日常的な空間や時間からのギャップ、歪みを生じさせてしまうのかもしれない。そのタイムトンネルに入り込むような、現在・現実に身を置きながら同時にそれを超越してしまうような、不思議ワールド。歴史や考古などの分野に魅了されてしまう人の気持ちが少しわかる気がする今日この頃である。
「すっぽこ」を口にする時に感じる気恥ずかしさは、「すっぽこ」という語感のコミカルさだけでなく、「これから僕、異次元に旅します。ごいっしょにいかがですか」的な要素にも起因しているのだと思う。
■すっぽこの謎:あんかけ
a主任研究員も気にしているように、「すっぽこのあんかけ化」は、すっぽこ研究の大きな課題の一つだ。これは、讃岐の「しっぽくうどん」が単なる汁かけうどんであること、また、祖母が言うところの「すっぽご」が煮込みうどんであることと、今そば屋のメニューにある「すっぽこ=あんかけうどん」への変異の謎に関わっている。同時に、否あんかけ〜あんかけの変異は、「家庭料理としてのすっぽこ」が、いつからどのようにして「外食文化としてのすっぽこ」になっていったのかという、もう一つの重要な課題をも内包している。
■すっぽこの山形伝来の流路
すっぽこが「西」から伝わってきたことは、たぶん間違いないだろう。その流路は、時代によっても違うがいくつか考えられる。まず、大きく分けて海路と陸路。海路に関しては、新潟で陸揚げされ山形へという南からの道はあまり考えられないと思う。何故なら、その入口である小国町や飯豊町に、西(上方)の文化が伝播した痕跡が見られないためだ。
では、上方文化が伝わった典型的なエリア、庄内酒田経路はあるのかと言えば、これも現在のところノーだ。このブログを通して知り合った庄内組に聞いても、すっぽこの情報は皆無である。残るは内陸部、もしくは太平洋側からの陸路ということになる。置賜地方での情報が得られていないこと、岩手に「すっぽこ」が存在することなどからも、太平洋側から伝わったと考えるのが自然なような気がする。
さて、2本目。
山オヤジさんが再度、祖母からの聞き取りと、知り合いの中華料理店の主人に問い合わせてみた結果をメールで報告してくれた。
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「あんかけ」について:
今日、母に聞いたのでは、当時小麦(メリケン粉と言った)は
貴重なものなので、ふんだんに「うどん」は使えず、
蕎麦粉に小麦粉を混ぜ、だんごにして入れた。
最後の方になると「どろどろ」してきて、美味しかった。
このあたりから「あんかけ」にしてみた?
このことについて「桃源」光義くんに今日聞いたら、
いみじくもそれも「しっぽく」として、
だんご風のものを食べたそうです。
(光義君の親達は北海道から来たので「しっぽく」と言っていたと。)
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■「どろどろすっぽこだんご」があんかけの母?
そういえば、すっぽこ(しっぽこ)メニューがある品川屋のお母さんが、「中山から嫁に来たんだけれど、その前はうどんなんて高級品で、家で食べたことなんかなかった」と話してくれたのを思い出した。あんかけを作る手間暇だけでなく、「うどん」そのものが、痩せた土地の山間部では貴重な食べ物だったのである。
この調査リポートにある「どろどろ→あんかけ」説は、以前、a主任が報告してくれた上山の「すっぺご」に通じる。うどんを入れてどろどろになるまで煮込んで食べていた、というものだ。家庭での「どろどろ」が、そば屋で再現・商品化される際に、くずあんかけになった…この仮説を裏付けるためには、そば屋取材の強化が必要そうだ。
意外なのは、北海道にも「しっぽく」があったということだ。しかも、だんご風?
あまり調査対象域を広げると、たいへんなことになってしまいそうなので、周辺情報にとどめておこうっと(笑)
最後のネタである。
■実録:暮らしの中の「すぺごうどん」(尾花沢編)
いつもお世話になっているEくんと電話で仕事の話をしていた際、同僚の、最近あまりお世話になっていない(爆)Sくんが小さい頃食べていたと聞き及び、その場で急きょ、電話取材した。
ちなみに、Sくんは昭和42年生まれ。38歳か?僕も年を取るはずだ(笑)
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小学校4年か5年までは尾花沢に住んでいて、
それまでは家で、昼食としてよく食べていた。
その後、谷地に引っ越したが、それからは全く食べていないし、
名前を耳にしたこともなかった。
回りの家でもフツーに食べていたと思う。
「すっぽこ」ではなく、訛っていてよく覚えていないが、
「すぺこうどん」とか「すぽこうどん」とか、
呼んでいたように思う。
昼ごはんだと呼ばれて行くと、器にうどんだけが盛られていて、
「なに〜?うどんだげなの〜?」と言うと、
じいちゃんが汁をかけてくれた。
その役はいつもじいちゃんだった。
具はその時にあるもので、ネギとかみょうがとか。
小さく刻んだ油揚げが入っていたこともあったかな…。
でも、あんかけではなかった。
その頃のばあちゃんは60歳過ぎ、70歳にはなっていなかった。
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どうだろう、ほほ笑ましくもリアルな「すっぽこ」のある日常。なんだか、すごくうらやましい。ふとしたきかっけから「すっぽこ」を調べ始めてしまったわけだが、僕個人としては、外食での「すっぽこ」より、家庭で食べられていた「すっぽこ」と、これにまつわる生活の情景、といったものにとても興味が沸いている。
この聞き取りでわかったことが二つ。一つは、やはり家庭での「すっぽこ」は、あんかけではなかったということ。そしてもうひとつは、その時代だ。Sくんが小学校4、5年生ということは約28年前。ばあちゃんが当時70歳前ぐらいだとすると、もし存命なら90歳代後半だ。祖母の年齢に近い。家庭料理としての「すっぽこ」の謎を解く鍵は、100歳前後のおじいちゃん、おばあちゃんにあると断言できそうだ。(100歳前はいいとして、100歳「後」というのはスゴイなぁ)
すっぽこ研究所では、引き続き「すっぽこ」情報をお待ちしています。